天草といえば、天草四郎の生まれ故郷
熊本県の天草諸島といえば、何を思い浮かべますか?
おそらく、「天草四郎!」と答える方が多いのではないでしょうか。
実際は、実在したのか不確かで、”伝説の人”という印象もあるようですが、天草では、たしかに天草四郎の面影を感じることができます。
天草四郎の生まれは、上天草の大矢野島出身だという説が有力となっています。
理由は、天草四郎の両親、祖父母、姉の嫁ぎ先がすべて大矢野島のため。
島内には、天草四郎像がいくつもあります。
彼が歴史に躍り出たのは、「島原・天草一揆」。
1634年から1637年にかけて、島原(長崎県)と天草一帯が大飢饉に見舞われ、さらに厳しい年貢の取り立てに苦しんだ農民たちが、一揆軍を形成し、動乱の時代へと突入しました。
大矢野島には、天草四郎ミュージアムがあります。
南蛮文化とキリスト教伝来、「天草・島原一揆」と天草四郎を中心とした歴史を紹介していますので、ぜひ立ち寄ってくださいね。
さて、そんな天草四郎にまつわるスポットは他にもありますが、まずは、「天草の悲願」であった天草五橋についてご紹介したいと思います。
宇土半島から天草五橋を渡って、いざ上天草へ!
上天草へは、熊本県の宇土半島から車で行くのが良いと思います。
宇土半島から見る有明海の風光も美しく、ドライブを楽しめます!
前提として、諸島内では車の移動が大変便利ですので、レンタカーを活用してくださいね。
さて、本土の宇土半島からは、天草諸島の北端に位置する大矢野島が玄関口となります。
本土とは、天草五橋の一つ、1号橋(天門橋)で結ばれています。
天草五橋は、次の通りです。
- 宇土半島・三角〜大矢野島「1号橋/天門橋」
- 大矢野島〜永浦島「2号橋/大矢野橋」
- 永浦島〜大池島第「3号橋/中の橋」
- 池島〜前島「4号橋/前島橋」
- 前島〜天草上島「5号橋/松島橋
今は当たり前にある橋ですが、天草五橋が開通したのは、1966(昭和41)年9月24日。
1号橋の上で、厳かに開通式が行われたそうです。
長らく、「実現不可能な夢の架け橋」と云われ続けてきたこともあって、島民や関係者の喜びはいかほどだったでしょう。
天門橋(1号橋)から松島橋(5号橋)までの国道266号線沿いは、「天草パールライン」と呼ばれています。
とても風光明媚な景観が続きますので、ドライブを楽しんで!
天草五橋クルージングで、船上から景色を楽しむ!
天草五橋の4号橋と5号橋が架かる上天草の前島では、2号橋から5号橋の間を観光するクルーズ「SEA CRUISE」に乗船できます。
乗船券は、天草の旬な情報、グルメ、お土産などが詰まった複合施設「mio camino」で。
穏やかな海なので、たいていは船も大きく揺れることはなく、船が苦手な人もチャレンジしてほしい!
船上から見ると、島々が織りなす美しい景観をいっそう肌で感じられるはず。
天草五橋実現にまつわつ物語の中心人物は、「天草架橋男」の異名で知られる元大矢野町長の故・森慈秀さん。
大矢野町教育委員会による『大矢野町の歴史』によれば、森慈秀さんは上天草の湯島出身で、「郷土に尽くしたい!」という思いで政界入りしました。
昭和11年に、県議会で、森慈秀氏は、
「天草は離島ゆえに交通の便が悪く、産業・経済・文化・医療などあらゆる分野でハンディキャップを余儀なくされています。このような悲しむべき実情を解消するためには、まず大矢野町と三角町の間に橋を架け、天草をして九州本土の一部とすることであります」
と提案演説したそうです。
その後の周囲の冷ややかな反応にも屈せず、さまざまな困難を乗り越え、情熱をもって架橋実現に向けて動いた結果、ついに県と国が動きました。
そして、1962(昭和37)年に起工式が行われ、4年2ヶ月の歳月と、当時32億円の巨費を投じて天草五橋が完成したのです。
森慈秀氏は、町長在任中は経費節減のため公用車は使わず、職員が運転するバイクに乗って移動したり(当時)、自身の給与はすべて町に寄附したりと、無欲、質実な人柄だったと伝わります。
森慈秀氏の出身地である湯島は、現在も橋は架かっていません。
このことから、私利私欲ではなく、“天草人”として島の未来を考えていたのでしょう。
それまで年間45万人だった天草の観光客は、開通年は315万人に達しました。
船でしか行けない湯島は、ネコの楽園!
森慈秀氏の出身地であり、天草四郎の足跡を感じられるのは、上天草の湯島です。
大矢野島の江樋戸から船が出ていて、片道約25分。
到着すると、港でネコたちがお出迎えしてくれるほど、ネコが多く暮す島!
あえて探す必要もないほど、歩けばネコがトコトコ歩いていたり、ひょっこり塀の上から顔をだしたり。
ネコたちも、おっとりした性格をしている印象を受け、普段から島の人たちと共生しているのだなあと、ほのぼのとした気持ちになりました。
「天草・島原一揆」の頃、湯島では天草と島原のキリシタン教徒たちが集まって、一揆の談合を重ねていました。
そのため、「談合島」という別名でも呼ばれています。
当時16歳だった益田四郎時貞が「天草四郎」へと名を改め、一揆軍のリーダーと定まったのも、湯島でした。
諏訪神社には、談合の傍らで鍛治職人が鉄を鍛えて武器を作っていたと考えられている鍛冶水盤が保存されています。
一揆軍は、最期は12万余りの幕府連合軍に総攻撃され、天草四郎をふくめた3万7千人が島原の原城にて戦死しました。
彼らが夢見た未来は、いったいどんな未来だったのでしょう。
過去に、夢と情熱をもって全身全霊を捧げて生きた天草人の物語を、天草で感じてみてはいかがでしょう。