島の宝観光連盟

【五島】潜伏キリシタンが築いた歴史と文化的景観

近年話題が続く五島で、その歴史を紐解く旅へ!

五島列島といえば、平成30年に世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されたり、令和4年にNHKの連続テレビ小説、朝ドラ「舞い上がれ!」の舞台となったり、大きな話題が続いていますよね。
朝ドラを見て、島の自然豊かな景色や、空に舞いあがる大きな「ばらもん凧」の姿が目に焼きついた人も多いのではないでしょうか。
私も以前、ドラマの中で「ばらもん凧」の凧揚げ大会が開かれていた鬼岳に行きました。芝生に覆われた臼状の美しい丘で、しばし時をかけて、遠くに煌めく海を眺めていたのを覚えています。

五島列島は、北東側から新上五島町の中通島、若松島、五島市の奈留島、久賀島、福江島をはじめ、周辺の小さな離島や無人島をあわせて大小152の島々で構成されます。
古来、日本本土と大陸を結ぶ海上交通の要衝で、歴史的には、延暦23(804)年に、留学僧だった空海や最澄が遣唐使船で中国へ渡る時、国内最後の寄港地だったことでも有名です。
江戸時代は、五島藩主(福江藩とも言う)が五島列島全域を治めており、その時代に数多くの潜伏キリシタンが暮らしていました。
豊かな自然はもちろんですが、五島を旅する時に見逃せないのは、教会群。
なぜ、こんなに島中にあるのでしょうか。その背景を紐解いていきたいと思います!

江戸時代に、外海地方から移住した潜伏キリシタンたち

まずは、五島に潜伏キリシタンが多く暮らしていたワケ。
そのきっかけは、江戸時代の寛政9(1797)年に、五島藩主が土地開拓の人手が必要として、大村藩主に外海(そとめ)地方の領民を五島に移住させるよう要請したことに始まります。
人口が多すぎて困っていた大村藩主は喜んで快諾して、結果的に3000人ほどが五島に移住しました。
その多くは潜伏キリシタンで、島内には、彼らが開拓した集落が今に残されています。
例えば、水ノ浦集落(福江島)は外海から5人の男性とその妻子たちが移住し、開拓されました。表向きには仏教徒を装いながら、密かにキリスト教を信仰していました。
しかし、土地開拓は過酷で、入植前には「五島はやさしや土地までも」と歌っていた潜伏キリシタンも、実際には「五島は極楽、来てみて地獄」と歌ったそうです。
粉骨砕身の努力があって、美しい集落が今に残っているのです。集落の丘の上には、ロマネスク様式とゴシック様式と和風建築が混合した白亜の美しい水ノ浦教会が建っています。

信徒の受難、信仰の復活、奇跡の象徴となった教会

国内にも教会はありますが、自然豊かな島の中で存在感を放って建つ五島の教会群は、どこか来る人の胸を打つ重みを感じるように思います。
それは、潜伏キリシタンの苦難の歴史と信仰復活の喜びが、教会に溶け込んでいるからかもしれません。

長い禁教令が解かれたのは、明治12(1879)年。
密かに信仰を続けていた信徒たちは、受難と勝利の象徴として、五島における最初の教会を建てました。これが、福江島の堂崎教会(木造)です。その後、明治40年(1907年)に現在のレンガ作りでゴシック様式の教会になりました。その資材の一部は、イタリアから運ばれたそうです。
堂崎教会は、世界文化遺産の構成資産の一つに登録されています。内部には、「堂崎天主堂キリシタン資料館」が開設され、布教時代から迫害を経て復活にいたる信仰の歴史が展示されています。

かつて外海地方から潜伏キリシタンが移住して塩造りをしていたという福江島の井持浦には、井持浦教会が建っています。この教会には、明治32(1899)年にペルー神父が信徒たちに島内の奇岩や珍石を集めさせて作った、日本で最初のルルドがあります。
この霊水を飲むと「病が治る」と伝わり、奇跡の泉として信者の聖地となっています。
教会が建てられた背景を知れば、信徒たちの平穏を願うひたむきな思いが、ひしひしと伝わってきます。

100年の時を超えて、潜伏キリシタンがつくった文化的景観を見る

新上五島町の中通島にある頭ヶ島の集落も、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つです。
頭ヶ島天主堂が建つ白浜集落は、かつて病人の療養地として利用されてきました。
安政5(1858)年に、久賀島出身の仏教徒である前田儀太夫が代官の許可を受けて入植し、本格的に人の定住が始まったと言われています。
その後、外海地方から潜伏キリシタンが数家族入植。かつて療養地だったので人が近づきにくく、また儀太夫とともに過ごすことで表向きは仏教徒を装って、信仰の共同体を維持したそうです。
潜伏キリシタンが「どのような場所を移住先に選んだか」を示す一つの集落として、世界文化遺産の構成資産に位置付けられています。

頭ヶ島天主堂では、かつてはミサが始まる直前、法螺貝の音を合図として信徒が集まり、ミサが行われたそうです。神父は常駐しておらず、ミサが終わった後には、「教え方」と呼ばれる人が子供たちにカトリックについて教えていました。
頭ヶ島天主堂の見学は可能ですが、事前連絡が必要です。こちらをご確認くださいね!

大正8(1919)年に建てられた頭ヶ島天主堂は、「五島石」が使われた石造りの教会です。
良質な砂岩の「五島石」は、頭ヶ島を含む崎浦地域で採石され、長崎や平戸などへ運ばれて石畳の敷石として活用されました。
外海から移住した潜伏キリシタンも、出身地の外海にあった石積み技術を用いて、集落の石垣や小道、家の壁などをつくりあげていきました。
今、100年の時を超えて私たちが見ることができる集落は、潜伏キリシタンが自分たちの居場所を見つけ、独自の文化を花開かせていった美しい文化的景観なのです。

ソウルフードで締める、五島の旅

教会巡りの腹ごしらえは、ぜひ、「五島うどん」を!
讃岐うどん、稲庭うどんと並んで日本三大うどんの一つに数えられています。
ルーツは諸説ありますが、遣唐使の時代に、寄港地である五島列島に伝わったと言われています。五島は東西文化の重要な中継地だったので、大陸から麺文化が伝来されたのは確かなようです。
特に、上五島が伝来地とされ、五島うどんの発祥地と言われています。
「食用の椿油」を塗布しながら引き伸ばす製法で、コシが強くて切れにくいのが特徴。
五島は、古来、島中に椿が咲き誇る椿の島。
椿から搾取した椿油は、こうして生活や食文化にも取り入れられてきました。
大きな鍋でぐつぐつと麺を茹でていただく「地獄炊き」は、上五島のソウルフードです。「あごだし」のつゆで、ちゅるちゅると、いくらでも胃袋に入っていきますよ!

本土から五島市へ行くには、長崎空港または福岡空港から五島つばき空港(福江島)まで、飛行機で約40分。
長崎港から福江島までは、超高速船のジェットフォイルも運航しており、約1時間30分です。
新上五島町の島々へは、博多港、佐世保港、長崎港から高速船やフェリーが運航し、約1時間30分〜です。
詳細は、アクセスを確認してくださいね!
では、よい旅を!